文字の流行

私たちは、普段色々な言葉を使って会話をしていますが、その言葉にも流行り廃りというものがたくさんあります。
先日、とある辞典では「ウルトラマン」という言葉が姿を消した、という記事を目にしました。
かなり時代は下りますが、「モーレツ」や「モガ・モボ」などもこの類に入るのではないでしょうか。
今では「そんなの関係ねぇ!」という言葉ですら、早くも廃りの兆しを見せているように私は感じます。(もしかすると、”廃れる兆し”というよりはすでに”廃れた”という過去形なのでしょうか)
このように、話し言葉には絶えず流動がつきもののようです。前置きが長くなりましたが、私は”書き言葉”にも流行というものがあって然るべきだと思います。
もっと踏み込んでいうならば、書き言葉の流行というものがあるということは厳然たる事実なのだと思うのです。
具体的に言えば、現代で使われる書体は楷書と簡単な行書だけです。屋号などでたまに草書や隷書、篆書を目にしますが、それはあくまでほんのわずかな特例であり、大多数は先ほどの二種類が大半を占めていると思います。
私は、この事実を踏まえ、書道の世界でもその事実を反映させていきたいと考えています。
そこで一つ問題になるのが、古典や古筆に対する捉え方です。これらは、楷書や行書で書かれているものもありますが、それ以外の書体で書かれているものも多数あります。
また、例え楷書・行書で書かれていたとしても、書かれている内容が漢文であることがほとんどなので、一字一字は理解出来ても、文章全体の内容は分からないことが多いはずです。
では、私は古典・古筆を否定するかというと、そんなことはありません。古典や古筆を習うこと(以降、臨書と書きます)と、現代の書道のスタイルは別ものと考えているのです。
臨書から学ぶべきものは、筆遣いなどの技術的な面もさることながら、一番大きいものは、「自分自身が変わること」ではないかと思うのです。
それは、『論語』や『古今和歌集』などを学ぶのと似ている気がします。これらの古典が書かれた時代と現代では、当然のことながら生活様式は変化し、様々な価値観も当時と同じではないでしょう。
しかし、それでも人の心を打つのは、古典を精読することで自分自身に変化が起きた、と捉えることが出来るからではないでしょうか。
書道における臨書というものは、ハードの面(文字)の変化というよりは、ソフトの面(自分自身の心)の変化を果たすものだと、最近は感じています。
古典・古筆にはもはや「流行り廃り」はありません。あるとすれば、それは人の心が移ろい行くだけです。
つまり、書道における現代性の獲得というのは、古典・古筆を学ぶことでのソフト面の変化を指すのではないでしょうか。
うまくまとめられていませんが、今回の文章は、結局のところ「古きを温め新しきを知る」という言葉で表現できるものだったかもしれません。